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★ペッパーショップ

グラフィックデザイナー古賀学の現事務所名。元フリーペーパー、インディーズマガジン名。それがペッパーショップ。現在コミック・キューのアートディレクターや、海洋堂アクションフィギュアのアートディレクターなど。

1993年

■フロッケ前夜。サルブルネイ(+サマタマサト氏)が『ape』(1991年)『MOP』(1992年)と現在(もしかしたらそれよりずっと先)を予見するようなブックレット+フロッピーという形態のメディアを発表。『MOP』には既にオリジナルフォントが11書体やディレクタームービーが収録されておりました。あとそれらの作品の完成お披露目パーティーなるものが今考えても凄かった。

■また中ザワヒデキ氏(アロアロインターナショナル代表)の『JAPAN ART TODAY』(以下JAT)というフロッピー美術雑誌がありました。JAT創刊当時、名古屋の大学生であった大岡寛典氏(後にアロアロ社員、現在フリーのグラフィックデザイナー)が『裏JAT』と称し、同じくフロッピー美術雑誌を立ち上げた頃に彼とはレントゲン芸術研究所で知人(キキとララという美術ユニットの田代もも子氏(当時相方のキキさんは現ポパイ誌ライター))の紹介で出会いました。当時の大岡氏はビールはおろか肉も油も食べられない病人だったと思います。

■同じ時期にペッパーショップ(当時フリーペーパー)のスタッフと、アロアロのバイトも兼ねていた池松江美氏(現メディアアクティビストとして活動)がクレバーな作風でエッジ(笑)に効く作品を創作しており、気の狂ったハイパーカードスタック(←今こんなの作ってる人いるのー?)を作っていたように記憶しています。

■そんなこんなで古賀周辺でもフロッケ前夜からフロッケにつながって行く芽生えは見えていました。当時はパソコン(マック?)の普及台数もそんなになかったと思いますが〜。

■そして1993年10月マッキントッ書展なのです。

1994年

■まだ立川市高松町で暮らしていたある日、松本弦人氏より電話。裏マッキントッ書改めフロッケの企画スタート(詳細は割愛:フロッケの歴史参照)。似たイベントが既にあると言うことで、パソケット(パソコンソフトのコミケ:現在もやってるの?)へ御一行で取材。でも収穫は何もなかったのです。

■当時のパソケットでは格闘ゲームのパロディとエロCG(16色)しかなかったと思います。記憶違いの可能性もアリ。

■第1回のフロッケのチラシのデザインの為、マッキントッ書作品&ウソ商品&当時のデジタル系ミニコミをめいいっぱい物撮り。ウソ商品のパッケージはサルブルネイやペッパーショップにあったテキトーなものをテキトーに抱合せたものだった気がします。

■そしてフロッケ展がスタートしました。

■最初のフロッケ(1994年)では‘オリジナルフォント作品(4書体収録)’と‘ディレクタームービー作品’というベタな商品でした。あとフリーペーパーも配ってたと思います。

■今(原稿タイピングしながら)思い出しましたが、最初のフロッケの時にはまだペッパーショップはフリーペーパーで毎月都内に5000部バラまいてたのです。そーいえば告知コーナーも設けてたよ。「協力・ペッパーショップ」というクレジットもあったことですしー。この年の11月にペッパーショップは一部書店販売にシフトするんです『赤塚不二夫のペッパーショップ』。

■んでフロッケ2(1995年)にバカボンフォントとロボコンフォントをリリース(商品名は『ペッパーフォント』で2書体同梱包、おまけディレクタームービー付き)。同年にミヤヂマタカフミ氏のレジスターフォントが出るんですな。

■いやーいろいろ忘れとるものですな。肝心の「どれぐらい売れた?」ってのはもはや全然記憶にありません。

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