Special Interview MISU KAZUAKI
三栖一明

三栖一明 みすかずあき
1973年生まれ 
佐賀県出身
グラフィックデザイナー

EYEPOP名義でインディー時代からジャケット、広告、サイトなどナンバーガール全てのビジュアルを手がけるデザイナー。実は向井と高校3年の頃からの付き合い。向井の学園祭でのステージを見たことがあるなど、向井とナンバーガールの過去を知る上では欠かせない人間である口癖は「いやいやいやいや、あのねあのね」
(「ナンバーガール大辞典」より)

三栖さん、という方をご存じですか?
ナンバーガールの初期、福岡時代からグラフィックを勤め、ナンバーガールの世界観をしっかりと支える、デザイナーです。あの変なジャケットも、フライヤーも、みんな三栖さんが作ったモノ。写真を見て「あ!」と思った人、そうです、ライヴ会場では物販コーナーでよくお見かけします。ナンバーガールの世界観を語る上でかかせない三栖さんに4STSTがインタビューをお願いしました。
出会い
automatic kiss records版の「SCHOOL GIRL BYE BYE」(1997)にはメンバーの中に三栖さんの名前が「グラフィック」として載っていた。

























「Groove TUBE」はフリッパーズ・ギターの3rdアルバム「ヘッド博士の世界塔」に収録されている。パーフリ後期の名曲。






























まずは三栖さんの紹介からはじめたいと思います。三栖さんは現在東芝EMIの社内デザイナー、という肩書きでいいですか?
社内デザイナーと言うわけではないです、単なるバイト君みたいな感じですよ、本来は、でもナンバーガールまわりのデザインしてる人、っていう感じですね。今はブラッド・サースティー・ブッチャーズのジャケットとか、グッズとかも作ってるんで、HARAKIRI KOCORONOツアーの時は、物販で全部自分の作ったものが売られていて(笑)。
しかも売ってるのも自分、と(笑)。
なかなかデザイナーとしては特殊ですよね、アーティストと密着した物作りだし、しかも、ライヴ会場ではお客さんに直接売ってる。普通のデザイナーはそういうことは出来ないから、ちょっとうらやましいですね(笑)。
三栖さんは元々「グラフィック担当」でナンバーガールのメンバーだったんですよね。
:automatic kiss records版のSCHOOL GIRL BYE BYEの時はそうでしたね。
元々、向井さんとは高校の同級生なんですよね? 出会いはどんな感じだったんですか。
:高校一年の時に隣のクラスだったんです。最初の印象はメガネかかけててキリッとしてて、髪の毛もアブラをつけてさわやかに整えてて「ジョン・ローン」に似てましたね。それが第一印象。隣のクラスでは彼は面白いキャラクターで、たまにチラっと見ると、クラスの友達に「向井、踊れー!」とか言われてムーンウォークしてたりしてて(笑)。それで面白い人だなーって思って、挨拶だけはしてたんですよ。高2の時ときとかは何もなくて、高3の時に同じクラスになったんです。で、最初に出席番号順の席順のときに三栖、向井で前と後ろになって、向井が授業中とかに「心のアルバムベスト10」とか書けとか言うんですよ。でお互い書きあったら、音楽とか趣味が共通するものとかあって、それから仲良くなり始めましたね。
高校の学祭の時とかは一緒になにかしたりしてないんですか?
僕はなんにもしてないんですよ。向井はいろいろやってましたけどね。そのころはバンドブームだったけど「ああいうのには迎合しない」とか言う感じで。でも向井はベースも弾けたから、友達のバンドに手伝って、って言われて手伝いとかもしてましたけどね。でも、ライヴの時は一人であぐらかいてベース弾いてた(笑)。
 自分では背の高い女の子にモテる色男の友達と二人で向井がラップ、その友達がDJでユニットででてましたよ。なんか前日に向井の家で徹夜でその友達と向井が二人で酒を飲みながら考えて、あんまり寝とらんとやっとりましたね。全然覚えてないんですけど「なんちゃらかんちゃらキラーカーン」ってのだけ覚えてる(笑)。
 僕はそのころはまだ一緒にやる、とかじゃなかったですね。僕らは佐賀の鳥栖っていうところなんですけど、向井は福岡の天神とかまで遊びに行ったりしてたし、わりと音楽よりの遊びとかもしてたけど、僕は学校と家の往復で、しかも、家から学校が近いんですよ(笑)。行動範囲は狭かったですね。
 で、進学して、僕は九州造形短期大学ってとこに受験して受かったから行くことにしたんですけど、向井は日芸(日本大学芸術学部)の映画学科を受けたんだけど落ちて、家で浪人もせずにフラフラしとったんですよ。僕も短大とはいえ、授業が大学並にゆるかったのでわりと家にいたんですよ。だから二人でよくウチで遊びましたね。音楽を爆音でかけて、踊ったりして。
:ほほう、どんな音楽で踊ったりしてたんですか?
:GROOVE TUBE。
:ええええええーーー!!!(驚愕&爆笑)
:あのイントロの「テロレロ〜テロレロ〜」って音が入ってるじゃないですか、あそこはお互いおとなしくしてるんですよ。「なんやおまえ〜ど〜たらこ〜たら」とか言って、すましてて、「ダン!」って音楽が入ると「ウワーーー!!」って踊り出す。という。そのころは、普通にいわゆるマンチェスター系とか、オリジナルラヴとかスチャダラパーとかも聞いてましたよ。
:し、渋谷系!!! でもそのころ18歳とかですよね。でも僕らも聞いてました。みんな聞いてますよね、その辺は。
:今はどうかしらんけど、俺らはレニー・クラヴィッツとか気に入ってたしね。あとやってたことは…、イメージ遊びみたいなものとかしてましたね「ここに○○ちゃんがいるってことにしよう」とか言って、友達数人とかでその子があたかもいるかのように振る舞うんですよ、途中で怖くなってきちゃってね(笑)。その子がほんとにいるように思えて着ちゃって。「帰らんくなったらどうしよう!」とか(笑)。一緒にテレビゲームをして遊ぶとか、そういうことはあんまりしてなかったですね。
あ〜〜、なんかわかります…地方の美大生の生活ってそういう感じですよね…(深く共感するところがあるらしい元岐阜の美大生のBLUE)。
:向井は映画とか自分で撮ったりしてて、僕の学校まで撮影しに来たりしてましたよ。
:三栖さんはその映画に出たりしてないんですか?
:あ、出ました出ました(笑)
:それはどこかで発表したんですか?
:いや、僕とか、向井の友達とかが見たくらいじゃないですかね。それで、向井が「映画は完成するまで作るのが大変だ」って言い出したんですよね。「音楽はすぐ形になるからいい」って。元々作曲とかはしてて、音楽はやってたから。それでそうこうしてるうちに僕は学校卒業しちゃうんですよ。なんか、学校で勉強したものをそのまま職業にするってことにリアリティがもてなくて、就職活動もしないまま、家にいて。で、その学校卒業した年の夏に、向井がイベントをはじめるんですよ。それがチェルシーQっていうやつで。で「イベントをやるからおまえ、チラシやらんか」言われたのが、一番最初。
それが、自分にとって、すごくリアリティがあったんですよ。なにが必要で、なにを作ればいいのか、すごくよくわかって、ワクワクした。最初はMacなんてなくて、コピー機で切り張りして作って。ワープロとかもないから、短大のときのタイポグラフィの教科書から日本語も全部拾って作って。どうしてもない漢字は雑誌から同じようなのを拾ってきてきっちり作ったりしてたんですよ。ポスターも、コンビニの最大サイズのA3サイズで作って。紙をコンビニから持ってきて、床においてコピーした素材を置いて、上から引いてみて、「う〜んもうちょっと上」とかやって、一人ですごいアナログ作業で作ってましたね。
 それでその頃、短大の時から付き合ってた彼女にフラれて、ポコーンと、すごい凹みの時期が来たんですよ(笑)。そこで「コノヤロー!」とか思って、コンピューターとか買うお金なんて持ってなかったんだけど、Macを買うぞ! と思ったんですよね。別に「見返してやる!」てほどではないけど、まあそんな感じで。それでちゃんとバイトして、計画的にお金を貯めてMacを買ったんですよ。それから、一人でまた試行錯誤してなんとか使えるようになって。それでなんとか今この仕事ができているって感じですね。
:すごく今のデザインにそのころのアナログ感って影響してますね。ていうか、就職、一度もしてないんですね。福岡でもデザイナーやってたと思ってました。
:いや、就職してないですね、だからちゃんとした仕事のやり方を知らないっていうコンプレックスはずっとあったんですけどね。
:いや、逆に試行錯誤の上に築いた独自の世界観だからこそ、いいんじゃないかと思います。クオリティも高いですし。